お弁当。二人分を用意した。
今日は柏の葉爽快マラソンだ。
が、そのためのお弁当ではない。フルマラソンにお弁当なんて要らない。フルマラソンはDNS。Do Not Start。棄権だ。
ちょっと文章にすることで整理をさせてほしい。
これはお見舞いに行って、父と一緒に食べるお弁当だ。
誰のお見舞いかだって?
母のお見舞いだ。
母が最近調子が悪かったなんてことは知らなかった。
実家はドア・ツー・ドアで1時間半くらいだから(しかも電車は各駅停車で)、すぐそばだ。もともと都内の会社には実家から通っていたくらいだからね。
5/1に緊急入院。そもそも大腸内視鏡検査をするつもりだったがその前日に入院したということだ。
そんなわけで今日はお見舞いに行く。
どうせ、父のことだから、ちゃんとしたごはんを食べていないだろう。今こそお弁当男子の力をみせるときである。
じわりと悪くなったものはじわりとしか回復しない。基本的にはそういうものだ。
まれにがばりと剥がれ落ちるように治ることもある。
しかし気持ちというのは慣性がある。気持ちの慣性力を殺した上で、ベクトルも正しい方向に維持し続けなくては、いっときの奇跡程度で終わるだろう。
ちなみに父もガンを患ったが、奇跡を起こして医者が手を下すまでもなく、自力で治してしまった。病巣がまさに消滅してしまったのである。医者もびっくりというやつだ。
母にこれが期待できるかというと、なんともいえない。
たとえば、神様がいるとして(ここでいう神様は、創造主ではなく、見守っている指導教官みたいなニュアンス)、この状況をどう見るだろうか。
「奇跡を起こしてください!」というのは何か違う気がする。
与えられた課題を読み取って、自分をコントロールして、丁寧に分析して取り組んでいってこそ、初めて答案を見てくれるし、もしかしたら解いている最中にヒントをくれるかもしれない。
「わからないです。お願いします。お願いします。」みたいな生徒に先生がいつまでも付き合うかという話だ。
神様に人格があるのならば、よく頑張っているかわいい教え子にひいきをするのはやむを得ないところだろう。神様だって忙しいのだ。
人生は一冊の問題集であるならば、問題をとくことにこそ意味があるのであって、答えを書き写させてもらおうというのであれば、問題集を解く意味が無いとは思わないか?
まず、その設問に取り組むと決断すること。
先生(神様)の顔色を伺っていたらだめだ。ちゃんと考えて自分で解こうとすることだ。助けてもらおうなんて考えてもいけない。
そこで「あーでもないこーでもない」と頭を捻っていると「ほら、ここに見落としがあるよ」と教えてくれたりするのが神様だ・・・と思う。
自分が先生だったら、助ける意味がないと助けないでしょう。
「問題集をやることに意味を感じていない」と先生に思われてしまったら、そこで人生の問題集を解くのは終わり。
そして、先生はこう言うわけだ。
「やる気が無いなら、もう還ってきていいよ。」
人生の意味というのは、その問題集を一通りさらって、面白そうな問題を探すことではないと思っている。
問題集を解くことで実力がついていき、先生がこういいながら別の問題集を出してくれる。
「その問題集は君にはもう易しすぎるから、こっちを解くといいよ。面白いぞ。」
母は母の問題集があるし、父には父の問題集がある。そして僕には僕の問題集がある。
母の問題集の心配を僕がしてもしょうがない。僕には僕の問題集があるのだから、それをやる必要がある。
これは具体的には、人の死について考えることであったり、どうサポートするのかということであったり、お金の問題であったり、生活の質ということである。
他人事として放置ということではなく、自分が解くべき設問がそこにあるのだから、それをやるしかないのだ。
やることはいっぱいあるのだ。面倒くさいことだらけなのだ。
その辺、全部ちゃんと片付けたら、「まあ、なんだかんだいって、やることやったし、ちゃんと生きたって言える」と思えるのではないかと思う。
どきどきわくわくというのは、探すのではない。
問題を解き終えるとそこにひとくちコラムのように現れるものである。そしてそれは問題を解いたからこそ面白い読み物になるのである。コラムだけ探しても駄目なのだ。
同じ事象が違うように見えてくる。
これがどきどきわくわくの正体であり、生きがいというものにつながるのだろうと思う。
私の鬱の寛解までの思考・思索は、伊達ではない。しっかり向き合って生きてきたよ。