昨日はお参りにいって心をちょっとばかり清めてきた。
今日はきっちりと運動をして、掃除もして、体と身辺のデトックスとやらを進めようと思っている。(思っているだけでやらないかもしれない。)
今日は朝から、「サラリーマンうつ病リハビリ記」というブログの再始動に勤しんでいた。
このブログはいうなれば、ウツの奮闘記であり、復活を遂げた著者のノウハウを綴ったものだ。この激動の時期に再始動すれば、少しは誰かの役に立つのではないかと思ったからだ。
ウツというのは、当人がしんどいのはもちろんのことだが、相手にしている人もかなりしんどい。
治す気が無いように見えるし、環境を言い訳にするし、いかに自分が繊細な人間なのかを悲劇仕立てに語ることに生きがいを感じているのではないかとも思ってしまう。
大変厳しいことをいうが、そういうごまかしの感情を手放してしまわなければ、その境涯から抜け出すことは大変難しい。ここがスタートである。
しかし、そうはいっても・・・というのが人間である。すんなりわかって行動に移せるような人は、そもそもウツになっていない。
ふと、思うのだが、こういうウツの人がこのまま死んだら一体どうなってしまうのだろうか?
それは自殺するということではなく、現状に甘んじて、なんとか薬でごまかしつつ、そして生涯を終えた場合である。
私はあの世も、転生輪廻も天国地獄も信じているので、その感覚で言わせてもらうと地獄行きであろう。
天国というのは、感謝の心で溢れており、心穏やかで、笑顔で満ち満ちているのだと思う。不安に怯え、環境のせいにして、ドヨンとしている人間がいれるはずはない。
そう考えると、ウツという艱難辛苦は、いつか乗り越えるしかないということになる。
諦めるも諦めないも、永遠の命があるのであれば、その状態はいつまでも続いてくのだから、いつかは前に進まなくてはならない。
ここで手を差し伸べる立場の人は焦ってしまう。「それなら今やるしかないでしょう」と。
これは違うと思う。違うというか、なんだかそのウツの人を見ていないような気がする。
別にやる気が出ないのなら、そのまま苦しむのもいいのではないかと思う。その苦しみのその状態を良しとしない気持ちが出てきたら、その体育座りをとけば良い。それまでは、体育座りをして、膝に額をのせて、いままでのこととこれからのことを悶々と考えているとよい。そんなことを考える時間も必要である。
これはネガティブで冷たいことのように思うがそうではない。
やはり反省の時期は必要であり、ジタバタしてもしょうがないと心を自分で決めていくことも大きな気づきである。他がいくら言い立てても決意を促しても、それでは意味がない。
私は立ち上がろうとして腰をあげはじめた人のお手伝いをする。下を向いて考えごとをしている人の邪魔はしない。そのように思っている。
今後は、駄文として垂れ流しつつ、考えを再構成してリハビリブログのほうに掲載していくスタイルをとろうと思う。
ウツだと小難しいことをたくさん言われてもわからないし、ネガティブな言葉を見つけ出してはいちいち心に傷を負っていくので、簡単かつポジティブな言い方にしなくてはいけない。
そういうわけでブログレベルが限界かと思う。動画チャンネルを作ってしまうと直接的なその波動でこちらがやられてしまいそうだ。