これは駄文に分類されるのだろう。とりあえず体裁を整えることなく書きなぐることにする。
やりたくないこと
先にやりたくないことから言わせてもらうと、千葉の丘の上から新宿の先まで通ってシステムのUI画面の面倒を見ることである。
通勤電車が苦痛であるし、やっている仕事も一生続けていくには楽しさが足りない。クライアントが提示する意味のないわがままを実現するような仕事が入ったときは、クライアントに提案できる立場ではないことに歯噛みする。
裏を返せばやりたいことが見えてくる
いままでアプローチや選択肢と言った意味での武器(Web画面で表現する技術)の種類を豊富に提供することが私の役割だと思ってきたが、世の中の人は武器の使い方を驚くほど知らない。本来の使い方を知らないのだから、もちろんメンテの方法もそこにかかるコストも知らない。
じゃあ、武器の使い方を教える仕事をしたいのかというと、そうでもない。
なぜかというと、武器は経年劣化するし、武器そのものが古くもなる。それはITだろうと現実の武器だろうと変わらない。もしかすると、ITのほうがサイクルが早いかもしれない。そんな、移り変わりの激しいものに気持ちを預けていこうという気がしないし、なんだかもう疲れてきたのだ。つまり、武器を用意するのにも疲れてきたわけだ。
武器の作り方を使い方を知っているのなら、それを使って自分の思いを表現することが、いま、一番やりたいことだ。
細かい技術を積み上げる仕事ではなく、もっとその前の世界観を作り上げる仕事がしたい。
例えばゲームを作るとする。
プログラミングを頑張って小粋な演出を考え出すのもいいし、コミカルな絵を描くのも楽しいだろう。
でも、本当にやりたいのは、その演出やキャラクターではならないという世界観を作ることである。それこそがゲーム内でのパラメーターの増減に意味を持たせることになる。
シナリオライターではない。ストーリーテラーになりたいのだ。
どんな物語を見せることができるだろうか?
少しぐらい武器に不足があってもかまわない。そこは補完をお願いするという手もある。意図が伝わることが大切なのだから、技術ではなくて見せ方のほうが重要だろう。
アウトソースできるところはアウトソースして、物語を語ることに集中するのだ。
一つの方法としてブログがあるだろう。また、動画を作るのでも良いだろう。ただ、そこで道具に使われてはいけない。
物語を語るツールとして使っているだけであって、そこにツールの限界を表現の限界にしてはいけない。
ちょっといま考えているのは、ベッドサイドストーリー(水蕗の運営しているブログの一つ)の展開である。
このブログはただ単にほんわかしたストーリーをダダ流しするだけではなく、いくつかピックアップして、朗読と挿絵をつけた動画にしてもいいかもしれないと思っている。
プレゼンは苦手だが朗読は楽しい。一字一句違えずにその文章を読み上げるという行為が、雰囲気に合わせて言葉を変えて語るよりも楽しいのである。
カラオケは好きだが音が決まっている。そこに合わせるのが苦手で、カラオケは練習している割には下手な方だと思う。朗読ならば自分の節回しが独特の魅力になるのかもしれない。
こうやって楽しいものを制作する上で得られた技術を別の機会に教えるというのは、非常に有意義であると思う。
技術のための技術にしない
教えるという行為は、上から目線になるのでなかなか気分の良いものではあるが、教えるために学ぶというのは、実用性が足りないように感じる。加えて、役に立つかどうか分からないことを教えるためだけに学ぶことはしたくない。それでは、教える人も教えられる人も無駄な時間を使ってしまうことにもなりかねない。
長々と書いてきたが、伝えたいことを伝えるためには、伝えることに情熱を持たなくてはいけない。情熱を持てば、自ずとその周りの技術はついてくる。