一日の勝利条件について考えてみる(1)

結構なお題を持ってきてしまいましたが、これは中年以降大切になってくることですので、定期的に考えたいと思います。

まずは前提事項として、私は神様を信じていますし、あの世があることも、この世に計画を持って生まれて来ていると信じている者です。この前提事項を取っ払ってしまうと、「なんのために生きているのか?」が意味のないものになってしまいます。

信仰心がなければ、生きている時間の意味というものは、空虚にならざるを得ないと思うのです。

勝利するとは?

ポジティブで力強い言葉として「勝利」を使いましたが、つまるところ「生きている価値を創造できたか」ということです。それは「生産性」という言葉で言い換えることができるのかもしれません。

生産性には多い少ないだけでなく、マイナスもあります。ただ「生きている上での生産性がマイナス」という言い方ですと、いかにも生きている価値が無いという感じがしてしまいますが、ここは気をつけなければなりません。

例えば、生産性ということで、会社組織で考えてみたとしても、生産性がマイナスになったところですぐにクビになるわけではありません。あまりにも大きな不祥事を起こしたりや損失を出してしまった場合は、対外的に責任を取るという形でクビになることもあるでしょうが、日常の業務の流れの中で、まっとうな会社なら突然クビにされることはあまりありません(会社も色々ありますから一般的な話です)。

ここで敢えて、勝利とは逆の敗北というのはどういうことかを考えてみましょう。

1日において敗北するというのは、消耗戦や消化試合になっている感じではないかと推測されます。しかし、消耗戦であったとしても、そこに戦いの意味を見いだし、たとえ力尽きようともやらねばならないことがあるという強い意志があったならば、私はそれを勝利していると定義したいのです。

ここで一つ新しい見方を確認することができました。すなわち、私の思う勝利とは、挑戦し続ける気概を持ち続けること、そのものであるということです。

だから、この世的な失敗と見えしものであっても、そこから貪欲に学んで、次の布石を考えて行く姿勢があるならば、それは勝利であり、いや、むしろそれこそが勝利であるということです。

これにより、単なる強がりではない真の積極性を創造性に発揮し続けることをもって、勝利と定義したいと思います。

大作になりそうなので、シリーズ化しようと思います。次は「勝利にも段階がある」という話をしたいと思います。

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