すべてのことはほぼ垂れ流しの雑感にしかすぎないので、このカテゴリもどうなのかと我ながら思う。
さて、主題に掲げた「健康」であるが、こいつは「幸福」ほど主観的ではないもののなかなか掴みどころがなく、維持するのも難しいものと思える。
この「健康」とやらは、競技レベル(・・・たとえばマラソンとか水泳といったもの)が上がったとしても、それが健康増進とは直接結びつかないという。
つまり、走るのが速くなってマラソンの成績がよくなったとしても、健康になったということにはならないというわけだ。
冷静に考えれば当然のことではあるが、よくよく見落としがちなところではある。
とくに、のめり込むと「速くなりたい」「うまくなりたい」という欲が出てくるので、無理をしがちである。
野球選手がボールを投げまくって肘を手術するというのも、どう考えても健康的とはいえない。体が資本でそれでお金を稼いでいるからやむなく手術をするわけだ。
では、のめり込んでしまうことは健康にとってよくないことなのか?
これまた難しいところでもある。
のめり込むということは、楽しいのだ。少なくとも、のめり込んだ当初は楽しいものである。
それを「のめりこむな」と言って、夢中で遊んでいる子どもからブロックを取り上げるようなことをして、本当に健康になれるのだろうか?「もっとやりたいなぁ」「残念だなぁ」という気持ちを抱えたままで、本当に健康に良いのだろうか?
そもそも「なんのための健康か」というところもある。
メンタルからの影響も無視できないので、不幸感覚が強くて、体が健康で有り続けるというのもなかなか難しいことではあると思うが、もしそうだったとして、その人生は充実したものとなりうるのだろうか?良い人生だったと振り返ることができるのだろうか?
自分が「良い人生」と思えるのであれば、別に健康でなくともよい・・・となると、「良い人生とはなにか?」を考えることなしに健康を論ずるのは片手落ちであると言えるのではないか。
ここまで考えたところで、一般論と切り分けて考えよう。
みんなに提供するサービスとしての健康の考え方ではなく、自分が生きていく意味と照らし合わせて、その人生において健康はどういう位置を占めるのかを考えたい。
自分にとって、健康とは優先順位は高くあれど、第一位ではない。
人としてなにか後世に残すとなると、残すための技術・原料は必要になってくるので、そこが足りていないようであるならば、ちょっと無理をしてでも自分の思う及第点にまでは引き上げておく必要がある。
その技術は文章力なのかもしれないし、説得力のある動画編集能力なのかもしれない。その原料は語るに足る信用度や人格なのかもしれない。
ともかくも価値あるアウトプットとして残すために必要なものが揃っていなければ、いくら健康であったとしても、アウトプットが豊富だったとしても、意味がない。そびえ立つゴミの山はむしろ後世の人を惑わせるかもしれない。
さて、私にそのアウトプットをするために必要なものを備えているのだろうか?
ただ健康で長寿を長らえるということだけであったとしても、それだけで人類に価値を提供することはできる。
このバランスが難しい。
ただ健康であればいいのではない。アウトプットを焦って短命に終わってもつまらない。かといってすべてそこそこということだと、平々凡々でありなにかの役に立つのかも分からない。
ステータスの割振りに正解はない。自分の満足度の高い、割振りはどのあたりにあるのだろう。
そんなことを思いながらサボタージュ。