2024年5月28日に婚姻届を出した。すでに一緒に住んでいるし、この家は自分の買ったマンションだ。
「結婚ができるような状態にはなったけれど、無理だろうな」と思っていた。なにせ、もうすぐ50歳である。母は亡くなってしまい、父も健康とは言えない。こんなところに飛び込んでくるような人が一体いるのだろうか?
そもそも結婚をしたくないわけではなかった。
ただ、うつ病と戦っていたりして、自分に精一杯なのに、一家の大黒柱として他人を支えていける自信がなかった。相手にも失礼であると思っていた。
結婚という文字がちらつく前は、「父の葬式をしたら、他人様にご迷惑をかけないように、自分の人生をうまくクロージングする方法」を考えていた。
人間というのは、生きているだけでお金がかかるものであるが、死ぬときにもかかるものだ。生まれてから死んだ後も、他人様のご厄介になりっぱなしなのだ。
母の葬儀を手伝ってから、少し人生観が変わったように思えた。
他人様のご厄介にならずにクロージングというのはそもそも無理な話なのだ。だから、ご厄介になるぶん、体が動くうちにお世話をする気持ちでいかなくてはいけないし、ホモサピエンスとして種をつないでいくという意識を持つのは、あるべき姿ともいえる。
じゃあ、どうしようか。
なにものかになろうというときに、目先のメソッドにはこだわらないようにしている。
例えば、健康的で活動的で笑顔にあふれた生活をしたいというとき、その人はどういう日常や考え方をして行動しているだろうかと考える。
きっと、朝早く起きるだろうが「朝早く起きなきゃいけない!」って思ってはいないし、無理して目覚ましのスヌーズをかけまくってもいないだろう。恐らく自然と目が覚めて、軽快に体が動いていることだろう。
つまり朝だけにフォーカスしても意味がない。
適度に運動をしているだろうし、夜も深酒などせずにたっぷり眠っていることだろう。ごはんもジャンクフードはほとんど口にしないだろうし、もしかしたら毎日自炊してお弁当まで作っているかもしれない。
それに都心に通うサラリーマンが笑顔でいられるということは、対人関係の取り方においてもきっと知恵があるい違いない。受け流しがじょうずであったり、さらっとしたさわやかな性格でもあるだろう。たんに能天気ということではなく、人間を知っているということだろう。
知識は本やメディアからとることもできるかもしれないが、それだけではだめだ。醸造して熟成して自分にぴったりとくるツールとして磨きをかけていかなければ、知恵があるとは言えない。
そんなことを考えてきた。
ずっと一直線というわけにはいかなかったが、あっちこっちふらふらしながらも、顔はそちらに向けていたと思う。
「できることややりたいことを考えて着実に積み重ねる」というともっともらしく聞こえるが、重要なのはそこじゃない。そのまえに、「この世に生まれてきてやるべきこと」が見つかっていなければならない。それは天命と言われるものかもしれないが、それを持たぬままにいたずらに努力しても虚しいだけである。
結婚したら、「この世に生まれてきてやるべきこと」も少しは変わってくるだろう。もう一度、自分をよく見直すときがきている。