(駄文)心身ともに作り直し

こちらは「垂れ流しの雑感」になります。いわゆる「チラシの裏」というやつです。

先月はいい感じにジョギングと水泳に勤しんでいて、12月は「繁忙期の中をどれだけ耐えられるか」というふうに考えていたのだが、こともあろうに会社のフットサルの練習で右足首を捻挫してしまった。歩くにも支障が出る有様で業務にも少なからず影響を与えてしまった。

今現在はまだ走るには難しく、足首の柔軟性を確認しながら、ちょっとずつ負荷をかけている状態である。

足首の捻挫というと走るのはもちろんのこと、泳ぐことも難しい。キックが打てないし、壁も蹴ることができない。歩くことにはなんの支障もないが、階段の下りには少し気を使う。

このままジョギングと水泳ができる状態まで、怪我の回復を待っていると、心肺機能がどんどん落ちてしまうし、筋力も落ちてしまう。特に水泳の筋力は独特なので日常生活をしていては鍛えにくい。

そこでキャリステニクスの出番である。これはいっとき「囚人トレーニング」という名で一世を風靡した。このSTEP1~2はリハビリに非常に良い。

まず、可動域を確保する。それからレップ数を重ねていく。運動するための準備をしていく感じだ。

しかも低負荷と侮ることなかれ。最初のうちは中級レベルのレップ数であっても翌日に重さが残るくらいしっかりと刺激が入る。

じわりと負荷が全身に回っている感じで、どこか一点に強烈に効いているわけではないので、これは怪我をしにくいだろう。

それに一連の動作が自然であり、競技にも非常に役に立つ。競技力を高める可動域を広げる筋トレであるといえる。

そんなことは分かっていたはずなのだが、以前はちょっとかじった程度で積極的に取り入れてこなかった。なんだか楽しくなかったのだ。

しかし、ここにきて、体と対話するという重要性を感じるようになり、その実感をもとに久しぶりに取り組んでみたら、なんとも心地よいのだ。使える筋肉を目覚めさせている感じがわかるし、一種の充実感が得られた。

さて、ここまでは体の話である。「心身ともに」というからには心の視点もある。

捻挫をしてから、朝と夜に設定していたルーティンができなくなってきたのだ。

歩くのもままならなかったくらいだから、運動ができず、家事全般が滞り、事務作業にも影響を及ぼし始めた。体に引っ張られるタイプなのである。

ただ、体に引っ張られるということは、老年期はもうボロボロになってしまうのではないかとも思う。やはり、体がちょっとぐらい弱っても心で引っ張る切り口も欲しい。

それにはやはり言葉の力が必要だ。

言葉にすることで具体的になり、計画性が生まれてくる。漠然とした不安を言語化することで、不安の対象が明確になる。明確にさえなれば、対処もできる。対処できるものを不安とは呼ばない。

一応、ルーティンの中に、そういった言語化のアプローチは入っていたのだが、なにぶんないがしろにしがちであった。どちらかというと、読書とか勉強みたいな方に重きをおいていたところがある。

もやっとしたものはすべてクロッキー帳に書き出して、言語化するという癖をつけておきたいところだ。私はこれを脳内会議と呼んでいる。

単なるToDoのようになることもあれば、出てきた言葉に対してセルフツッコミをしまくる図になることもある。

不安なことだけでなく、やりたいことなどももやっとしはじめたら全部書きだしておく。

ダンボールが溜まっているとか、皿洗いしないととか、そういえば最近野菜が足りていない気がするとか、節約できてないとか、全部書きだすのである。

そうすると具体的な行動指針も出てくる。

例えばダンボール出すのなら、いつ出すのかを決めて、それまでに分解して縛っておく必要がある。「それならまずは分解だけしようか」みたいなタスクを作ることができるし、縛るタスクとゴミ庫に出しに行くタスクも作っておけば、「ダンボールが溜まっていてなんとかしなくてはいけない」というもやもやはもう起きなくなる。ひとつずつ片付ければいいのだ。

一方で、考えてもしょうがないこともある。それはもうしょうがないこととして処理すればいいのだ。備えとして、お金なのか体力なのか、蓄えることもできようが、不安を先取りすることはない。

こうやってもやっとしたものを文章化して、対処できる形にするか、考えてもしょうがないと消し込むかしていくことを心の作り直しとしている。

漠然と反省と言われてもなかなか手に馴染まないので、手元の不安を分析していくことで、反省というか足りていないことが見つかり、改善につながっていくのだと考えている。

心身ともに作り直して次の年に挑もうではないか。

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