タイトルが結論ですので、それを見て「まったくそのとおりだよね」と思うのであれば、それでこの話はおしまいとなります。お疲れさまでした。
さて、「なんのことやら」と思った皆様、改めましてよろしくお願いします。
いにしえのころから、人は性善説と性悪説を唱え、「人間神の子仏の子なのだ」と言ったり、「いやいや、人間は罪の子なのだ」と言ったりしているわけですが、私は性善説の立場をとります。
そもそも、善と悪というのは、人と人との関係性で生まれるもので、人が世界でただ一人で存在するような状況において、いかなる善も悪もおかせないように感じます。
そういう前提でいえば、もともとは善も悪もないと考えることもできるかもしれません。
ただ、あの世があって天国地獄があるという立場から言えば、悪いことをするため生まれてくるということはないという結論に至らざるを得ないわけです。
これが、タイトルの前半部分の「人の本質はダイヤモンド」という考え方です。
それでは、後半の「易きに流れる」とはどういうことかという話をしていこうと思いますが、これはそのままといえば、そのままです。
人というのは、気持ちを入れて奮起をしないと、どんどん劣化していくということです。言い方を変えると、ぼーっとしている状態で勝手に成長戦略を取ることはないのです。
このエントリーのタイトルが意味しているのは、「生まれてくるときはダイヤモンドとして生まれてくるのだけれど、それが勝手に光り輝き出すということはなく、ダイヤモンドとして磨きをかけなければ光らない」ということです。
この「ダイヤモンドとして磨く」というのが一番の論点となります。
石ころとして磨くのではなく、ダイヤモンドとして磨くのです。本質は硬くて丈夫なものであると信じて、力いっぱい磨くのです。「割れてしまうのではないか」とおっかなびっくり磨くのではないのです。
これはみなさまに説教をたれているのではなく、自分への戒めとして書き付けています。
人はストレスコントロールにおいても、体調コントロールにおいても、「これはちょっと頑張りすぎだからやらないほうがきっと良い」のか「いやいやそんなこと言っていたら食って寝るだけになってしまうではないか」の中でゆらぎながら生きていると信じています。
無茶はいけないですが、無茶のラインが難しく、また、ここ一番では無茶もしなければ、大きなことはできません。そもそも「ここ一番」とは一体いつなのかという問題もあります。
これが仏教でいうところの苦楽中道というもので、要は正しい道です。
「これさえやっておけばよい」というのは、一本でぐっと押していくことができるので強いのですが、それが正しい方向であり続けることは難しいものです。物事にはやはり両面があり、両輪で回していくのが常です。
もちろん、物事には例外というものがあり、究極は光一元となるのですが、実践するにあたっては何事も両輪という考え方が肝要かと信ずるものです。
「どうしようかな」という局面においては、なるべく自分を伸ばしたり矯めたりする方向で考え、それを行動に移したときに常軌を逸したものではないかを勘案しつつ、その中で厳しい道を選び取っていくことが、いわゆる人生修業ということになるのでしょう。
ずっとその「紙一重」を狙い続けていても、すり減ってしまうところもあるので、「常に厳しい道を選び続けなくてはいけない!」と強く断言するものではないですが、人生も折り返している己の半生を振り返るにつけ、傾向としてはもっとごりっと磨いてもよかろうと感じます。
お酒の量をもっと減らしても、なんならやめてもよいし、もっと体を鍛えても壊れないだろうし、もっと勉強しても絶対にしすぎではないでしょう。
もっと「紙一重」を狙う機会があっても良いのではないでしょうか。(強い自戒)