何も考えずにルーティンができるようになってからが本番

レースの開始前、練習をはじめるときやおわるとき、運動だけでなく、一日のはじめとおわりのとき。そこで「一礼」や「一拍手」のように締まりを持たせるためにやるのがルーティンだと思います。

ルーティンは緊張と弛緩の合図かもしれませんし、たんなるはじめとおわりということではなく、切り替えの意味があるかもしれません。

なんであっても、それはひとつの力の支点でしかありません。

その行為自体に特別な意味が出てくるタイミングは、力の支点として頼れるものとなったときです。

例えるなら雲梯(うんてい)のひとつひとつの棒がルーティンと見立てることができるかもしれません。

あの棒にぶら下がることが当たり前にできなければ、体を腕だけでぶら下がって前に前にすすめることはできません。

このまま雲梯の例を使わせてもらえば、軽やかに前に進むには、ぶら下がるそのことを意識せずにできるのはもちろんのこと、どのタイミングでその棒を掴んで離すのかという判断も意識せずに、どちらの方向でどんな速さで進むのかを考えられるようになってからが本番ということです。

棒を握っている手を見ることなく、行きたい方向を見据えることができなければ、結局、どこに向かっているのかも分からなくなってしまいます。

ルーティンとは、その意識がその行動から離れてからが大切なのであって、ルーティンができていることで調子に乗っていてはいけないし、ルーティンにばかり気を取られていてもいけないのです。

なんのためのルーティンなのかを意識しながらも、ルーティンをすることに努力がいらなくなるというのが、凡事徹底の一歩なのだと思うこの頃です。

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