凡事徹底が分かりそうでワカラナイ

「ワカル」なんていうのはおこがましいのかもしれません。なんというか、「色んな要素が組み合わさって、実利の力となる」というとちょっと俗世にまみれているようで言いよどむのですが、ひとつ階段をのぼる感じというのが適当かどうか・・・それすらわかりません。

ただ、何回もめげずに繰り返ししつこくやるということは、かなり重要で、全然できていないと思っていたとしても、思いがずっとそっちに向いているということ自体が、すごく重要だというのが分かってきました。

何を言いたいのか、恐らく伝わらないかと思いますが、それはしょうがないとも思っています。

こういうのがわかっただけでは駄目で、それで調子に乗ってしまったら、足を踏み外すわけです。

わかったことを伝えようとしても、質問を返しつつにやつきながらこちらのマウントをとってこようとする人もいるわけですが、そこに応じてはいけないのです。そもそも、自分もマウントをとろうとして知識をひけらかしているのではないかと反省すべきなのかもしれません。

こういった人生訓というようなものは、年長者のドヤ顔オンステージになりがちではありますが、そんなことではいけないのです。飲み屋で語るのではなく、的確な場所で、ふわっと匂わす程度が聞き手にはぐっとくるものです。

そもそも、エバンジェリスト(伝道師)としての使命を自認してそれを生業としているのならいざしらず、ただただ人生訓を語るは、小言と捉えられても是非もないのです。

閑話休題。

凡事徹底というのは、すなわち習慣のことでもあります。何を凡事とするのかという議論もありましょうが、字面を素直に追えば「当たり前のことを当たり前にやる」ということです。

少し工夫をした言い方をすれば、「やるべきだと感じたことを、日常の一コマとしてやり続ける」ということです。つまり、最初の「Do」には、純然たる自分の意志があるということです。

ただ、この「やること」の内容そのものは重要でもないこともあります。

なにかがあって「これをやるのがいい」と思ったけれども、本来の意図からすると「これはどうかと思う」というシチュエーションが存在します。しかし、敢えてそれをやることで、身にしみるということもあるかもしれません。

ちょっと卑近な例で申し訳ないですが、「血の巡りを良くして睡眠の質をあげる」ために「毎日運動をする」というのを掲げたとして、酔って帰ってきた晩に、それをやるかということです。

いろいろ言い訳をして「やらない」という選択もあるでしょうが、「それを知りながら飲んで帰ってきたのだから、責任をとって敢えてやって報いを受ける」という考え方もあるわけです。

酔いの程度や、そもそもの身体能力もあるでしょうし、その他諸々鑑みる箇所は多く、センシティブではあります。でも、やるかやらないかというだけでなく、あいだをとることもできるわけです。

そもそも、酔っ払って自堕落してきた上に、決められたことをしない言い訳にするというのはマインドセットとして問題があります。とはいえ、飲んで帰ってくる日があってもいいわけで、そこは考慮不足といえます。

安定してなにがしかを続けるには、うまい感じの知恵が必要です。締めすぎず、緩めすぎない、いい感じのルールを適用することが凡事徹底を続けていく力ともなるように思います。

この「いい感じのルール」が、ゲームを作るときの加減に非常に似ている気がします。うまくモチベーションを引き出せれば、それは「おもしろいクエスト」になるわけです。

自分自身のいいところや苦手なところを掴んで、絶妙なルールを設定していく知恵があれば、より効率よく、かつ、努力していると感じることなく凡事徹底ができるように思います。

でも、分かっています。

これは、本当に本当に難しいことなのです。そして、意外とみなさんが向き合っていないことなのかもしれません。

ウツは、そういった「自分の弱さに強制的に向き合わされて、それができなかったら社会に適合できないのだから死ね」という感じです。怠け者の烙印を自分自身含め、簡単に押してしまいますからね。

出遅れはしましたが、これはひとつの淡い悟りです。

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