朝日記「ToDoリストとクオリティ・オブ・ライフ(QOL)」

朝のルーティンであるお風呂に入りながら、ToDoリストのあり方と生活満足度(いわゆるクオリティ・オブ・ライフ)について考えていました。

ToDoを書けばいいというものではない

朝、今日やることをリストにしておく人は多いと思います。ただ、リストに書くよりも、さっさと始めてしまったほうが良いToDoもあるのではないかと思いました。

例えば、自宅にいながら「皿洗い」とリストに書きつけるナンセンス。

どうせやらなくてはいけないことで、かつ、今すぐできるものならば、「やらないと」って認識した瞬間に始めたほうが、「書いて→やらなきゃなぁ→やる→消し込む」が全てその場で終わるので、コストがかからないのです。リストも気持ちもスッキリです。

家にいれば、その「リストに書いている方が無駄」という項目は家事になりますが、会社にいる場合は「クライアントに返信メールを書く」みたいなことになるのではないかと思います。そのかわり、会社でやらなきゃいけない家事を思い出したのなら、それはToDoに入れてもいいのではないかと思います。(例えば、「帰ったら明日は資源ごみの日なのでダンボールをまとめる」とか)

もっとも、すぐに始めればいいというものでも無いとは思います。

時間がかかるものや、高度な判断が要求されるものは、やはり慎重にすすめるべきものなので、「すぐに始められてしかも手さえ動かしていれば考えごとをしながらでも完了する」という類のものに限定したほうがいいでしょう。

さきほど例にあげた「クライアントに返信メール」というのは、「拝受のご報告」レベルであればそれでいいのかもしれませんが、「急ぎはしないものの技術的な疑問に対する納得していただける返答」ならばToDoに加えておくほうがよいでしょう。

作業の優先順位が明確に決まっていて、しかもその内容を全部覚えていて、突然のタスクが発生したときにもそのタスクをどこに位置づければいいのか即座に判断できるのであれば、ToDoリストは要りません。

逆にいえば、DoToリストは「突然のタスクが発生したときに優先順位を決めるためのツール」といえるでしょう。その目的のために使うのが最適解だと私は思います。

「もっとうまくやれるはず」を大切に

「時間がないからしょうがない」とか「この状況なら及第点」という判断をくだすのは、客観的評価のあり方としては正しいし、それ自体に問題は無いと思います。

しかしながら、その評価をしたうえで「なので現状、改善すべきことはない」となってしまってはいけないという話をしています。

「しょうがない」「及第点」というワードからは、消化不良な印象を受けます。つまり、「もっといいやり方があるのではないか」ということを自ら暗に匂わせているのです。もしかしたら、「他から見たらくだらないと思うかもしれないけれど、それがやれていないことが心残り」という本心のSOSかもしれません。

今の私の場合は、身の回りがイマイチ片付いていないことと、何かに打ち込んでアウトプットを出すという行為というか、アウトプットの総量が足りていないと感じていることに、「もっとうまくやれるはず」を感じています。

「身の回りが片付いている」というのは、単に掃除がどうこうということだけではなく、地に足の着いた生活をしていて、持続可能な収入というか時間というか余裕というか、「自分でコントロールできている感じ」を代弁する言い回しであって、いわゆるキーワードなのではないかと自己分析しています。

「ダイナミックな動きをするには、その跳躍を支える地面が必要」という気持ちが表れているのかもしれません。

こういう気持ちの整理は、経営者がよく口にする「走りながら考える」とは違う次元にあるものです。地盤ができていなければ、走りながら考えられません。走っている地面がぬかるんでいるときに考え事なんてしていたら顔から倒れます。地盤がうまく作れていない経営者ほど、「走りながら考えろ」と責任転嫁しているように私は感じています。

閑話休題。

もし「なんだろうな。悪くはないけどなんかぼちぼちだなぁ。」と思うときは、なにか自分の大切なものをないがしろにしている可能性を考える時間をしっかりつくったほうがいいと思います。

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