最近、駄文が駄文じゃなくなっている気がしているので、ちょっと垂れ流す「私」の楽しみとして、あっちふらふら、こっちふらふらして、飽きたら唐突に筆を置くというようなチラシの裏にしたいと思います。
適切な運動量が分からん!
鼻呼吸できる程度の運動負荷は、まあ目安にはなりますが、心肺機能はすぐに適応していくので、筋肉が悲鳴を上げていることがあるのかもしれません。
鼻呼吸できる程度の負荷といっても、それが5時間なのか10分なのかで状況は違います。主観的な負荷レベルと運動にかけた時間を掛け算すればいいのでしょうか?
掛けあわせたところで、それを運動の「量」と考えた場合(まあ面積ですが)、適切な「量」というのは、どういう感じになるのでしょう?
「鼻呼吸できるレベル」というのと同じように、主観的なものになるとは思うのですが、主観的な「量」とはどういう表現になるのかすら分かりません。数値ではないことだけは分かります。
筋肉に聞く?
筋肉痛が出ていたら「体力強化のための運動はしない」という指針はうまくいきそうです。
筋肉痛が出たとしても、日常生活に支障が出ないレベルならば、運動をしたほうがいいと思われます。
逆に日常生活に支障が出るレベルの筋肉痛というのを私がどう考えているのかというと、筋肉痛によって動きを制限しようという意志が働くレベルの筋肉痛です。
たとえば、「階段を登るのに一段抜かしをしようとして足をあげたときにためらう」というレベルなら「日常生活に支障が出るレベルの筋肉痛」です。
動かそうとして、痛みで体がついていかないというのがひとつの指標になるかと思います。
そのコンディションでは自主的に負荷をかける余裕がすでにありません。日常生活でのちょっとしたアクシデントに対応する(怪我をしないように動く)のがやっとのレベルでは、日常生活の運動レベルがちょうどいいレベルだと思われます。
ただ、「足はバキバキだけど、腕は平気」なら、腕を動かして血流を良くすることで足の回復が早くなる可能性はあります。
あいているところをうまく使って運動をする日が毎日になるのがいいのではないかと思いますが、筋肉痛が出てしまうのはコントロールミスだと思っています。
本当に力を発揮しなくてはいけないときは、予定された競技会のときではなく、生命の危機のときや身内の危機のときのはずなので、余裕を残せていない時点で生き残り戦略としては不合格だと思うのです。
競技会のために運動をするわけではない
競技会のためにする運動は、競技会のルールが変わると翻弄されます。
学生やオリンピックを目指すのであればそれはやむなしといったところですが、生涯スポーツとして楽しむアプローチとしては脆いと言わざるを得ません。
平地のマラソンでは速いけれども、駅の階段を駆け上がると息が上がって電車ではハアハアいう人を果たしてタフというでしょうか?
先ほどの話の延長上にあることだと思うのですが、競技会のために運動をして出しきってヘトヘトになって家についたら、留守電に親が危篤というメッセージが入っていたときに、「疲れて動けません」なんてことがあったら、その運動習慣は一体なんなのでしょう?
下手したら「親の死に目に会えなかった最大要因」となるかもしれません。練習で死ぬ気で走ったら、死ぬまで後悔をする可能性だってあるわけです。
極端なことをいっていると思われるかもしれませんが、これはとても重要なことです。
全力を出さないとは言っていない
リスクを取る必要はあると思います。
なぜなら、全力を出さなければ、自分がやれる範囲が分からないし、自分の限界が分からないならば、自分をコントロールしているとは言えないからです。
だから、競技会で本気を出すことを愚かな行為だとは思っていません。
もし、レースで出しきって運悪くその直後に天災が起きたとしたら、「しょうがないよね。運が悪かった。」と割り切れるのならそれでいいと思います。そういうのが「リスクをとる」ということです。自分の決断の結果がなんであれ、受け入れられるのであればそれでいいと思うのです。
しかしながら、日々の練習で毎回出し尽くしていたら・・・。
もちろん。それで悔いが無いのなら問題はありません。
特に、初心者の時期を脱して伸び盛りのときに(これに年齢は関係ありません。続けていれば楽しくてしょうがない時期が必ずあります。)、「早くうまく(速く)なりたい」という思いをもって追い込みたくなる時期は必ずあります。
そこで何かあっても「こればかりはもう運だし、しょうがないよ」と思うなら、まったく問題ないと思います。
All you have to do is…
実はこのフレーズが嫌いです。
頭をまったく使わないからです。
それだけではありません。責任を放棄している(Youだから「させている」になるでしょうか)感じがするからです。
ひとつに絞れば集中できるかもしれませんが、それはたくさんある目的のひとつの手段であって、別のシーンや状況を加味していないことは、ちょっとひいて考えれば分かることです。
しかしながら、やることが単純というのは、非常に甘美なものなのです。評価基準が明確で、効果測定をしやすいからです。
人は、良くも悪くも効果測定を単純にしたがります。数値化や見える化もしたがります。第三者にアピールがしやすいからというのもありますが、はっきりいえば、面倒くさくないとおもえるからです。(実は一番面倒くさい結末をじわりと迎えると私は考えています。)