(駄文)運動と瞑想のバランス

こちらは「垂れ流しの雑感(旧 垂れ流しの寸感)」になります。論拠が曖昧だったり、論旨がふらついたりすることもあるかと思いますが、予めご了承いただきたく存じます。

久々に朝ランをしようと思ったのだけど、あいにくの大雨で、代わりに早く出社して、かなり久しぶりに会社での朝活をしている本日です。

最近は運動主導

最近は運動をすることで脳内をリフレッシュしたり、改造したりしようという試みに夢中になっていました。しかしながらそれだけではダメなようです。

それは当然の話で、運動さえすればなんでもうまくいくということは、あるわけがありません。それならば、運動選手は順風満帆であるはずだし、環境が順風満帆とは行かなくても、思慮深く堅実かつ活き活きとした人生を送っているはずですが、そうはなっていません。

勤怠というか生活サイクルというか、クオリティ・オブ・ライフというのか分かりませんが、とにかくいい感じではなく、どうしたものかと運動量の調整を行なっていましたが、そこではないことに気がつきました。

言葉としてはバランスが大切なのは分かる

分かるというよりも、当たり前のことを言っているだけです。

「バランスを取る」というのはつまり「いい感じにする」ということであり、「適切で正しい」ということで、すなわち仏教でいうところの中道ということです。問題なのはその基準が分からないということなのです。

運動が体にフォーカスしているとすると、瞑想は頭にフォーカスしていると言えば分かりやすいかもしれません。(個人的には瞑想は「今の感覚」にフォーカスしているといったほうがしっくりきます。)

運動は運動で大切ですが、「どこに注意を向けて何を思うのか」ということも負けず劣らず重要であるということです。運動さえしていればいいわけでも、瞑想さえしていればいいわけでもありません。ただ、トリガーというか、分かりやすさというか、なにが自分にしっくり来るのかというところは、人それぞれなのだと思います。

運動のし過ぎのように見えるけれども、運動が本当に好きで、ゴールを追いかけているのではなく行為そのものを楽しんでいるのであれば、それはし過ぎではないといえるのかもしれません。また、逆もしかりです。

リーンな体の知的な肉体派が運動を勧めるからといって、そのレベルの運動が勧められた人自身の幸せに必要なものなのかは分かりません。焦って運動をすると体を壊してしまう可能性が上がりますし、焦るということは、何か心の支えのほうが必要なのかもしれません。

バランスが崩れてはじめて分かる

バランスが大切ということはバランスを崩してみないことには身にしみません。先述の通り、バランスというのは傍から見て分かるものではないので、自分で知るしかありません。

また、これはそれぞれで深掘りして試して行くことで分かるので、はじめからいいバランスが分かるわけでもありません。バランスを知るには紆余曲折が必要なのです。だから、これは遠回りしているわけではありません。王道を順調に進んでいるのです。安心してトライ・アンド・エラーを繰り返しましょう。

要するに「試行錯誤ははじめから用意された道」ということです。
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