夜日記「時間にも収支があると感じた」

常備菜があると弁当を用意すること自体は大したことがない。しかしながら、毎日洗い物をしないと結局は弁当を持っていけないのである。

今日は水泳をやった。メニューはざっとこんなもの。

  • UP IM 200m
  • Swim 50m×40 1′
  • Down Kick 100m

トータル2300m。お疲れ様でした。帰りはちょっと遠回りをして3.6km歩いた。

ちょっと仕事で細かいことをしたので、いい感じに体が動かせたと思う。

50mを40本も飽きるだろうと思うだろうが、そんなことはない。ストロークに集中したり、全体の動きに注意を向けたりして、フォームの最適化をしながらこなしているので、まさに「いつでも集中」状態であり、暇だとか思う暇も体力的な余裕もないのである。

気持ちとしてはビルドアップだが、タイムとしてはほぼフラットである。およそ45秒であるが、しかしながら後半のほうが少し速いし、ラストは40秒であがった。

それはそうと、今日、ちょっとした発見をした。

時間にも収支がある・・・というのは分かっていたのだが、見極め方というか指標が見つかったのだ。

それは、「身の回りが片付いているかどうか」である。

身の回りというのは部屋がきれい汚いということではなく、ゴミはもちろんのこと、洗濯物や洗い物や、あるいはタスクというか、私生活のやらないといけないことも含め、処理が追いついているかということである。

どうしてそれが指標になるのか説明しよう。

これらによって、「自分のところに入ってきたものをきちんと整理できているか?回せているか?」ということが分かるわけだが、つまりそれはやっておかなくてはいけない宿題なわけだ。

宿題が終わらなければ遊びにはいけないわけだし、もしほっぽらかして遊びにいったとしてもそれはついて回るものではあるわけだ。

つまり、宿題が終わっていなければ遊びにはいけないし、いったとしても余裕が無くなるわけだ。

「夏休み」という期間にも終わりがあるように、やらなくてはいけないことである以上、期限がある。

つまり、時間に余裕があるということは、身軽ということにほかならないわけで、臭う寸前であったり、炎上寸前であるということは、やるべきことをやっていないわけであり、時間の収支がマイナスであると考えたのだ。

これは、自分としては結構納得の行く話で、「コントローラブルに生きることは、幸せであることと近い」という持論とも辻褄が合う。

もう一段の高みを目指すガイドが見つかった気分であり、流石に高揚します。

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